2010年04月01日
草取物語3
エドワード社の玄関は、大きな自動ドアから入るとすぐ、
落ち着いたエントランスがあり、
その先が鏡張りになっていて、
中庭が見える構造になっている。
そこには少なからず植込みがあり、
普段は人の出入りも多いので、
いつも植木の乱れや見苦しい雑草には気を使っている場所なのだ。
「何が不安って訳じゃないけど、何となくね。」
エドワード社の担当である岩下主任は、
温厚で知的な表情で、そう話しかけてきた。
「お気持ち、分かります。
もちろんその辺りはクリアにしてあります。」
私は、岩下主任が感じた漠然とした不安について、
丁寧に説明した。
もちろん、差別意識や安易な否定から
生まれた言葉ではない事は、充分承知している。
こういった発言を聞くと、激しく反論する人もいるようだが、
反論する人は、その行為が逆に
社会との壁を作っている事に気付いていないのだろう。
もっとも、冷たい洗礼を浴び続け、
次第に攻撃的になってしまったという過去があるのかも知れないが、
少なくとも岩下主任から感じるのは、
できるだけ協力したいという思いと、未知への不安だった。
そう、つまり先日まで、
草取り事業に対して施設の方々が感じていた不安と同じものなのだ。
「まず、人の出入りが少ない土曜日に作業を行います。」
「土曜日だけで終わるの?時間的には。」
「大丈夫、午前中もあれば終わってしまう仕事量です。
ゴミの持ち出しと処分は当社が行いますので
業務的に特に何かをお願いしなければいけない事はありません。」
「そうですか。注意事項や緊急に連絡したい事は伝わるのかな?」
「もちろんです。
必ず1名は施設職員の者が同行していますので、
細かいコミュニケーションを図ってくれますから安心して下さい、
作業当日にご紹介します。
それに、作業前の時点から業務が軌道に乗るまでと、
終了前の最終チェックは、私が必ず行いますので、
私に言って頂ければ。」
話をしながら、現場の状況を更に細かく確認する。
タマリュウという草類が一面植えられているスペースもあり、
ここはタマリュウを残して
雑草だけを抜かなければいけない所だが、
判別は容易で作業指示としては難易度が低い。
大丈夫、もう一度自分に言い聞かせる。
「まあ、舩越さんはプロだしね。お任せします。」
岩下主任はそう言うと、軽く頭を下げた。
「ありがとうございます!きっといい仕事にしてみせます。」
私は、深々と頭を下げると、
作業を依頼する最寄りの施設に連絡を取るため、車へと戻った。
・ ・ ・
2日前からグズついていた天気も朝の時点で上がり、
なんとか土曜日を晴れで迎える事ができた。
「ここです。玄関から入った正面に中庭がありますから。」
エドワード社の駐車場に
自分の車と施設の車を並べて停めてもらうと、
私は玄関を指し示しながら障がい者施設職員の赤尾さんに言った。
「こんなちゃんとした会社に入るのは始めてです。」
緊張の面持ちで、赤尾さんは言う。
20代後半、イケメン(笑)の赤尾さんは、
手話も出来る優秀な職員さんだが、
法人訪問には慣れていないようだった。
扉を開け、受付に向かう。
元々話せないので感想を聞く事はできないが、
背中に伝わってくる障がい者のみんなの空気は緊張したものだった。
私は、みんなの緊張を多少でも減らそうと、
いつもより手馴れた調子で、
置いてある呼び鈴を鳴らすと、ほどなく岩下主任が奥からやって来た。
「今日はよろしくお願いします、こちらが、施設職員の赤尾さんです。」
「よろしくお願いします。」
施設職員の赤尾さんが、緊張ぎみに岩下主任に挨拶をする。
同様な面持ちで、岩下主任も挨拶を。
お互いに緊張感は隠せないが、それも慣れだろう。
こういう時は、挨拶を済ませたら
すぐ作業に取り掛かる方が良い。
論より証拠、案ずるより産むが易し、である。
作業後に信頼関係が大きくなれば良いのだ。
「では、業務の説明をして実作業に移ります。
岩下主任、また終わり頃にお呼びします。」
私は、挨拶を済ませたみんなと中庭に入る。
想像していたが、みんなも大きな会社の雰囲気に
呑まれてしまっている。気持ちが浮つき、落ち着きが無い。
健常者でも障がい者でも、
そういう時は安心できる何かがあれば落ち着くものだ。
私はそういう判断から、すぐさま作業内容の説明を
オーバーな手振りを交えてしていく。
それはすぐに、赤尾さんが手話で伝える。
口頭説明より時間が必要だが、
それは重要な時間であり、削る事は出来ない。
少しずつ作業内容を理解したみんなは、
はやる気持ちを抑えきれないのか、
今にも草を取りはじめようとしている。
余談だが、作業内容の説明という部分は、
この後徐々に試行錯誤を重ねていき、
作業員のそして私自身の経験値が上がる毎に、
ツボを捉えたものになっていった。
今では、20分かかっていた作業説明は、
10分も有れば十分理解し進めていけるようになっている。
「ここを作業する人、それからここ。まずは二手に分かれてみましょう。」
あらかじめ施設側でシュミレーションしてあったのか、
あまり迷う事無く分かれて作業を始めた。
多少のアドバイスをしながら、
ゆっくりと全体を回ること15分。
作業しているみんなの動きに、
良いパターンや悪いパターンが見え始める。
「それをすると二度手間になるから、
小さい範囲を潰していく方法が良いよ。」
「そこまでやっていくと細かすぎて
時間が掛かりすぎるから、その部分はしなくても大丈夫。」
手話通訳ができる職員の方を通じて、
作業効率の面でアドバイスをする。
【草を取る】という作業自体は難易度も低いので、
さほど細かい部分まではどうやら気にする必要は無さそうだ。
そのまま、特に問題も無く約2時間。
私の仕上がりチェックで全ての作業を終えた私と彼らは、
笑顔で互いの労をねぎらいあった。
「きれいになりました。ありがとうございます。」
終了後、中庭に来た岩下主任は、
作業の最終チェックを終えると、そう言った。
「こちらこそ、このような機会を下さって感謝しています。
何かお気付きの点などございますか?」
不安はあっただろうが、
私たちを初めて使って頂いたその行動に
敬意を表しつつ、岩下主任にお聞きした。
「いや、問題ないですよ。本当にありがとう。」
どうやら本心でおっしゃって下さっているようだ。
しかし、潜在的な部分においては未知である。
施設のみんなの前では出しにくい潜在的な本音を聞くのは、
日を改めて私が行うのが適切だろう。
「それでは、ありがとございました。」
さわやかな充実感と共に、私達はエドワード社を後にした。
・ ・ ・
「ちょっと、ちょっと待って。」
帰るためにエドワード社の駐車場で車
に乗り込もうとしていた私たちを呼び止める声がする。
振り返ると、岩下主任がこちらに向かって来るのが見えた。
「あ、どうもありがとうございました。」
若干の不安を抱きつつ私は話しかけた。
岩下主任の息が少し弾んでいる。小走りにやって来たのだ。
施設のみんなにも若干硬い緊張感が走る。
まさか?悪いイメージが脳裏をよぎったのかもしれない。
いったいどうしたのか?と一瞬思った私だったが、
岩下主任の手に抱えられている物を見た瞬間、
その不安は歓喜に変わった。
「これ、持って行ってよ。」
岩下主任の手には、
草取りをした彼らの労をねぎらうための
パックのお茶が人数分納まっていたのだ。
未だ少し、岩下主任の息は弾んでいる。
きっと中庭でのご挨拶の後、急いで自動販売機に向かい、
事前に見て取った人数分を購入し、
帰ろうとする私たちを小走りで追いかけてきてくれたのだろう。
そこには、ただ単に発注者と受注者という事ではない、
感謝の気持ちが込められているのが伝わってきた。
「ありがとう。」
岩下主任は、今度は目の前にいる、
作業をしてくれた障がい者のみんなに向かってお礼を言った。
満面の笑みで赤尾さんが手話通訳する。
だが、そんな事はしなくても、みんなには伝わっていた。
笑顔が、みんなの笑顔が感謝の気持ちと共に伝わっていく。
その時、緊張で硬くなっていた空気は、
優しさという光に包まれて柔らかくほぐれていった。
それは恐らく久し振り、
ひょっとしたら彼らにとって生まれてはじめての体験だったのかもしれない。
今まで「ありがとう」という言葉は、
頂いた好意に対して使ってきた言葉だった。
もちろんそれは当然の事であって、
感謝する気持ちを忘れる事はないだろう。
しかし、彼らの今までの人生の中で
仕事を通じて「ありがとう」と言われる事は、
果たしてどれだけあったのだろうか。
来る日も来る日もむなしく空き缶を潰していた日々。
この瞬間、彼らは自分達の手で、
新たな社会での【存在価値】を見出したのだった。
求められている。
この仕事は、世の中に求められているのだ。
私も彼らの笑顔を見ながら、
優しくて温かい気持ちに包まれていた。
この障がい者施設と連携した草取りサービスは、
まだ始まったばかり。
しかし、立ち上りの春~初夏までの限られた期間だけで、
法人個人併せて10件以上の受注を頂いている。
まだまだ至らない点や未熟な点を全力で改善中だ。
それは、作業をする障がい者の方たちだけではなく、
私自身もだ。障がい者支援という未知の領域では
知らない事の方が多い。
しかし、ひとつづつ階段を登るように、
努力を積み重ねて行きたいと思う。
・ ・ ・
6月の久し振りに晴れた日、
私は5月分の作業代金を支払うべく、障がい者施設を訪れた。
そこには、手馴れた感じで空き缶を潰すみんなの姿があった。
私の姿を認めると、みんな笑顔で会釈してくれる。
最初に現状を見に伺った時のような切迫感は薄れてきているようだ。
「……なるほど、厳しい状況は変わりませんね。」
施設内の一角で支払を済ませ、領収書を頂いた私は、
赤尾さんと雑談をする。
やはり、障がい者雇用や収入の問題は
悪化の一途を辿っているようだった。
横を見ると、やはり何かの部品を手作業で作っているみんながいた。
この部品ひとつで、一体いくらの収入になるのか・・・
聞く事はできなかった。
「しかし、本当ならこんな日は外仕事するにはもってこいですね!」
話題を変え、務めて明るい話題を振る。
「そうなんですよ。みんなには練習だーって言って、
施設の周りに生えている草を取るように
言っているのですけど、なかなか……
仕事でお客様の所へ行った時の様には
集中力が続かなくて……いつも中途半端で終わってしまうんです。」
苦笑いを浮かべながら赤尾さんは言う。
それもその筈、その草取りには「ありがとう」が無い。
社会に自分の存在を示し、幸せな気持ちにしてくれる、
あの感謝の言葉が無いのだから。
「それは大変ですね。」
私は何だか楽しくなって、
赤尾さんには失礼だったかもしれないが、そう言いながら笑った。
6月の空に、空き缶を潰す音が響いていた―――――
私たちに力を貸して下さい。
ほんの少しの力でいいのです。
しかし寄付を募るとか、そういった話では、ないのです。
仕事という社会活動を通じて、
たくさんの「ありがとう」を彼らに届けたいのです―――――
※この物語はフィクションではありません。
登場人物や団体名などは
プライバシーの事もあり変えてありますが、
事実に基づき私の思いをそのまま言葉にしたものです。
<<了>>
落ち着いたエントランスがあり、
その先が鏡張りになっていて、
中庭が見える構造になっている。
そこには少なからず植込みがあり、
普段は人の出入りも多いので、
いつも植木の乱れや見苦しい雑草には気を使っている場所なのだ。
「何が不安って訳じゃないけど、何となくね。」
エドワード社の担当である岩下主任は、
温厚で知的な表情で、そう話しかけてきた。
「お気持ち、分かります。
もちろんその辺りはクリアにしてあります。」
私は、岩下主任が感じた漠然とした不安について、
丁寧に説明した。
もちろん、差別意識や安易な否定から
生まれた言葉ではない事は、充分承知している。
こういった発言を聞くと、激しく反論する人もいるようだが、
反論する人は、その行為が逆に
社会との壁を作っている事に気付いていないのだろう。
もっとも、冷たい洗礼を浴び続け、
次第に攻撃的になってしまったという過去があるのかも知れないが、
少なくとも岩下主任から感じるのは、
できるだけ協力したいという思いと、未知への不安だった。
そう、つまり先日まで、
草取り事業に対して施設の方々が感じていた不安と同じものなのだ。
「まず、人の出入りが少ない土曜日に作業を行います。」
「土曜日だけで終わるの?時間的には。」
「大丈夫、午前中もあれば終わってしまう仕事量です。
ゴミの持ち出しと処分は当社が行いますので
業務的に特に何かをお願いしなければいけない事はありません。」
「そうですか。注意事項や緊急に連絡したい事は伝わるのかな?」
「もちろんです。
必ず1名は施設職員の者が同行していますので、
細かいコミュニケーションを図ってくれますから安心して下さい、
作業当日にご紹介します。
それに、作業前の時点から業務が軌道に乗るまでと、
終了前の最終チェックは、私が必ず行いますので、
私に言って頂ければ。」
話をしながら、現場の状況を更に細かく確認する。
タマリュウという草類が一面植えられているスペースもあり、
ここはタマリュウを残して
雑草だけを抜かなければいけない所だが、
判別は容易で作業指示としては難易度が低い。
大丈夫、もう一度自分に言い聞かせる。
「まあ、舩越さんはプロだしね。お任せします。」
岩下主任はそう言うと、軽く頭を下げた。
「ありがとうございます!きっといい仕事にしてみせます。」
私は、深々と頭を下げると、
作業を依頼する最寄りの施設に連絡を取るため、車へと戻った。
・ ・ ・
2日前からグズついていた天気も朝の時点で上がり、
なんとか土曜日を晴れで迎える事ができた。
「ここです。玄関から入った正面に中庭がありますから。」
エドワード社の駐車場に
自分の車と施設の車を並べて停めてもらうと、
私は玄関を指し示しながら障がい者施設職員の赤尾さんに言った。
「こんなちゃんとした会社に入るのは始めてです。」
緊張の面持ちで、赤尾さんは言う。
20代後半、イケメン(笑)の赤尾さんは、
手話も出来る優秀な職員さんだが、
法人訪問には慣れていないようだった。
扉を開け、受付に向かう。
元々話せないので感想を聞く事はできないが、
背中に伝わってくる障がい者のみんなの空気は緊張したものだった。
私は、みんなの緊張を多少でも減らそうと、
いつもより手馴れた調子で、
置いてある呼び鈴を鳴らすと、ほどなく岩下主任が奥からやって来た。
「今日はよろしくお願いします、こちらが、施設職員の赤尾さんです。」
「よろしくお願いします。」
施設職員の赤尾さんが、緊張ぎみに岩下主任に挨拶をする。
同様な面持ちで、岩下主任も挨拶を。
お互いに緊張感は隠せないが、それも慣れだろう。
こういう時は、挨拶を済ませたら
すぐ作業に取り掛かる方が良い。
論より証拠、案ずるより産むが易し、である。
作業後に信頼関係が大きくなれば良いのだ。
「では、業務の説明をして実作業に移ります。
岩下主任、また終わり頃にお呼びします。」
私は、挨拶を済ませたみんなと中庭に入る。
想像していたが、みんなも大きな会社の雰囲気に
呑まれてしまっている。気持ちが浮つき、落ち着きが無い。
健常者でも障がい者でも、
そういう時は安心できる何かがあれば落ち着くものだ。
私はそういう判断から、すぐさま作業内容の説明を
オーバーな手振りを交えてしていく。
それはすぐに、赤尾さんが手話で伝える。
口頭説明より時間が必要だが、
それは重要な時間であり、削る事は出来ない。
少しずつ作業内容を理解したみんなは、
はやる気持ちを抑えきれないのか、
今にも草を取りはじめようとしている。
余談だが、作業内容の説明という部分は、
この後徐々に試行錯誤を重ねていき、
作業員のそして私自身の経験値が上がる毎に、
ツボを捉えたものになっていった。
今では、20分かかっていた作業説明は、
10分も有れば十分理解し進めていけるようになっている。
「ここを作業する人、それからここ。まずは二手に分かれてみましょう。」
あらかじめ施設側でシュミレーションしてあったのか、
あまり迷う事無く分かれて作業を始めた。
多少のアドバイスをしながら、
ゆっくりと全体を回ること15分。
作業しているみんなの動きに、
良いパターンや悪いパターンが見え始める。
「それをすると二度手間になるから、
小さい範囲を潰していく方法が良いよ。」
「そこまでやっていくと細かすぎて
時間が掛かりすぎるから、その部分はしなくても大丈夫。」
手話通訳ができる職員の方を通じて、
作業効率の面でアドバイスをする。
【草を取る】という作業自体は難易度も低いので、
さほど細かい部分まではどうやら気にする必要は無さそうだ。
そのまま、特に問題も無く約2時間。
私の仕上がりチェックで全ての作業を終えた私と彼らは、
笑顔で互いの労をねぎらいあった。
「きれいになりました。ありがとうございます。」
終了後、中庭に来た岩下主任は、
作業の最終チェックを終えると、そう言った。
「こちらこそ、このような機会を下さって感謝しています。
何かお気付きの点などございますか?」
不安はあっただろうが、
私たちを初めて使って頂いたその行動に
敬意を表しつつ、岩下主任にお聞きした。
「いや、問題ないですよ。本当にありがとう。」
どうやら本心でおっしゃって下さっているようだ。
しかし、潜在的な部分においては未知である。
施設のみんなの前では出しにくい潜在的な本音を聞くのは、
日を改めて私が行うのが適切だろう。
「それでは、ありがとございました。」
さわやかな充実感と共に、私達はエドワード社を後にした。
・ ・ ・
「ちょっと、ちょっと待って。」
帰るためにエドワード社の駐車場で車
に乗り込もうとしていた私たちを呼び止める声がする。
振り返ると、岩下主任がこちらに向かって来るのが見えた。
「あ、どうもありがとうございました。」
若干の不安を抱きつつ私は話しかけた。
岩下主任の息が少し弾んでいる。小走りにやって来たのだ。
施設のみんなにも若干硬い緊張感が走る。
まさか?悪いイメージが脳裏をよぎったのかもしれない。
いったいどうしたのか?と一瞬思った私だったが、
岩下主任の手に抱えられている物を見た瞬間、
その不安は歓喜に変わった。
「これ、持って行ってよ。」
岩下主任の手には、
草取りをした彼らの労をねぎらうための
パックのお茶が人数分納まっていたのだ。
未だ少し、岩下主任の息は弾んでいる。
きっと中庭でのご挨拶の後、急いで自動販売機に向かい、
事前に見て取った人数分を購入し、
帰ろうとする私たちを小走りで追いかけてきてくれたのだろう。
そこには、ただ単に発注者と受注者という事ではない、
感謝の気持ちが込められているのが伝わってきた。
「ありがとう。」
岩下主任は、今度は目の前にいる、
作業をしてくれた障がい者のみんなに向かってお礼を言った。
満面の笑みで赤尾さんが手話通訳する。
だが、そんな事はしなくても、みんなには伝わっていた。
笑顔が、みんなの笑顔が感謝の気持ちと共に伝わっていく。
その時、緊張で硬くなっていた空気は、
優しさという光に包まれて柔らかくほぐれていった。
それは恐らく久し振り、
ひょっとしたら彼らにとって生まれてはじめての体験だったのかもしれない。
今まで「ありがとう」という言葉は、
頂いた好意に対して使ってきた言葉だった。
もちろんそれは当然の事であって、
感謝する気持ちを忘れる事はないだろう。
しかし、彼らの今までの人生の中で
仕事を通じて「ありがとう」と言われる事は、
果たしてどれだけあったのだろうか。
来る日も来る日もむなしく空き缶を潰していた日々。
この瞬間、彼らは自分達の手で、
新たな社会での【存在価値】を見出したのだった。
求められている。
この仕事は、世の中に求められているのだ。
私も彼らの笑顔を見ながら、
優しくて温かい気持ちに包まれていた。
この障がい者施設と連携した草取りサービスは、
まだ始まったばかり。
しかし、立ち上りの春~初夏までの限られた期間だけで、
法人個人併せて10件以上の受注を頂いている。
まだまだ至らない点や未熟な点を全力で改善中だ。
それは、作業をする障がい者の方たちだけではなく、
私自身もだ。障がい者支援という未知の領域では
知らない事の方が多い。
しかし、ひとつづつ階段を登るように、
努力を積み重ねて行きたいと思う。
・ ・ ・
6月の久し振りに晴れた日、
私は5月分の作業代金を支払うべく、障がい者施設を訪れた。
そこには、手馴れた感じで空き缶を潰すみんなの姿があった。
私の姿を認めると、みんな笑顔で会釈してくれる。
最初に現状を見に伺った時のような切迫感は薄れてきているようだ。
「……なるほど、厳しい状況は変わりませんね。」
施設内の一角で支払を済ませ、領収書を頂いた私は、
赤尾さんと雑談をする。
やはり、障がい者雇用や収入の問題は
悪化の一途を辿っているようだった。
横を見ると、やはり何かの部品を手作業で作っているみんながいた。
この部品ひとつで、一体いくらの収入になるのか・・・
聞く事はできなかった。
「しかし、本当ならこんな日は外仕事するにはもってこいですね!」
話題を変え、務めて明るい話題を振る。
「そうなんですよ。みんなには練習だーって言って、
施設の周りに生えている草を取るように
言っているのですけど、なかなか……
仕事でお客様の所へ行った時の様には
集中力が続かなくて……いつも中途半端で終わってしまうんです。」
苦笑いを浮かべながら赤尾さんは言う。
それもその筈、その草取りには「ありがとう」が無い。
社会に自分の存在を示し、幸せな気持ちにしてくれる、
あの感謝の言葉が無いのだから。
「それは大変ですね。」
私は何だか楽しくなって、
赤尾さんには失礼だったかもしれないが、そう言いながら笑った。
6月の空に、空き缶を潰す音が響いていた―――――
私たちに力を貸して下さい。
ほんの少しの力でいいのです。
しかし寄付を募るとか、そういった話では、ないのです。
仕事という社会活動を通じて、
たくさんの「ありがとう」を彼らに届けたいのです―――――
※この物語はフィクションではありません。
登場人物や団体名などは
プライバシーの事もあり変えてありますが、
事実に基づき私の思いをそのまま言葉にしたものです。
<<了>>
Posted by いきもの係長 at 16:27│Comments(0)
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